野國總管 甘藷伝来400年祭

野國總管は、北谷間切の野国村に生まれ育ち、
後に中国に渡り甘藷(いも)を持ち帰った人物と伝えられています。

当時の琉球は貧しく、貧困にあえぐ人々は甘藷によって救われたといっても過言ではなく、
その業績は今でも語り継がれ、「芋大主」(ウムウフシュ)と呼ばれ親しまれています。

現代までよく知られている野國總管ですが、いつ生まれたのか
、 どのような暮しをし、いつ亡くなったかは分かっていません。

また、なぜ中国に渡ることができ、甘藷を持ち帰ることができたのかも定かではなく、
野國總管という名前と1605年に中国から甘藷を伝えたことしか分かっていません。

伝えられる名前の「野國」から野国出身が想像でき、
「總管」から進貢船に係りのある仕事をしていたと考えられます。

その頃中国は明国の時代で強大な勢力を誇っていて、
近隣諸国に執貢をうながし、自国に従うようにもとめていました。

我が琉球もそれに従い中国皇帝に頁ぎものを送る進貢貿易を行いました。

その貿易船が進貢船です。

野國總管はその舶に乗り、はるか海を超え、甘藷を琉球にもたらし、
そして各地の先達の手により日本全国に普及し、今に至っています。

まさに、命を支える食の大恩人といえる人物です。

野國總管(のぐにそうかん)は、嘉手納町の野國の出身で、
尚寧王時代に首里王府の進貢船(貿易船)の總管役を勤めた人である。

總管とういう役職は進貢船の中で事務を管理したり、航海の安全を祈ったりする
事務長のことだと言われ、總管の本名はわかっていない。

沖縄と中国との正式な国交は1372年(文中1年)に始まり、1872年まで続いた。

1605年(慶長10年)に中国福建省福州より
甘藷の苗を鉢植えにして持ち帰り、郷里の野國村で栽培した。

これをさらに真志喜間切垣花村の儀間真常が野國總管より栽培法を習い、
約15年後には沖縄全島に普及した。

1615年(元和元年)にウィリアムアダムス(三浦按針)によって、
那覇から長崎の平戸へ伝えられそれをリチャードコックスが北九州一帯に広めた。

その後1705年(宝永2年)に薩摩の前田利右衛門により、
沖縄から薩摩に伝えられ、唐藷と呼ばれた。

更に1735年(享保20年)に青木昆陽によって甘藷の栽培が
関東以南に広がり、薩摩藷と呼ばれるようになった。

野國總管は俗に「ウム大主」と呼ばれて尊敬され、
産業の恩人として県民や町民から親しまれている。